副院長ブログ(「インシュリン物語」を読む㉙一 インシュリン発見 6 一つのつまずき)
インシュリン物語の続きです(8月はお休みしました)。。。
すべて巧くゆくかにみえ、患者が次々と回復し始めていた時に、インシュリンの供給が先細になり遂には入手できなくなった。
少量のインシュリンを作るために使っていた方法は、大規模に試みた際には巧く行かなかった。
それにもう一つの困難があった。
抽出技術を完成してくれる適当な人を見付けることや、インシュリンを作る場所を見付けることである。
早急に諸計画を実行するために多くの人が奔走していた。
当時トロント大学生理学教室のようなアカデミックな機関は主として教育のための組織になっていて、研究のためには余り資金を持っていなかったのである。
したがって当時低い報酬で働いてくれた何人かの人があったことは幸いであった。
すなわちジョン・ヘプバーンやE・C・ノーブルらがマクラウドの指導下に、研究所問題の解決に参加したのは立派なことであった。
1920年代のカナダには大きな生物学研究所は無く、この国の製薬会社もまだ揺籃期で生薬を扱っている時期であった。
当時のカナダで訓練と経験と設備の余力を集めて新しい生物学的物質を早急に大量製造することは不可能なことであった。
ところが一つ大変幸運なことがあった。
第一次大戦のためにコンノート研究所が創設されていた。
1921年当時の研究所所長はJ・G・フィッツジェラルドで、製造困難であることを聞いて乗り出してきた。
そして研究所の設備と入手しうる限りの器材とを提供した。
1922年にはコリップが遠いエドモントンの彼の研究所に帰らねばならなくなったので、フィッツジェラルドは彼の若き友人チャールス・ベストにインシュリン製造の主任になるように説得した。
彼のために用意された研究室は医学部本館の地下2階で、外からの光線は全く入らず、空気の流通も悪く、大変不適当な場所であった。
至極原始的な材料を使って風穴を作る必要があったし、蒸溜装置も一度は危険極まる状態で爆発したので、これも工夫せねばならなかった。
時には大きなネズミが出てきて何とかする必要もあった。
かかる困難にもかかわらず、インシュリン供給は次第に組織化され、1922年5月には一定量の供給が可能となりつつあった。
設備の改善と共に、その量は同年6月まで増加し続けた。
チャールス・ベストはこの時期以上に激しく緊張して働き続けたことはないと書いている。
誰もがこの生産の成功に大きな関心を寄せ、できる限りの援助を惜しまなかった。
卓越した化学者のA・スコットがインシュリン生産に力を貸しに参加した。
ベストとの間に今日まで続いている友情ができたのも、まさにこの時期であった。
当時の興奮と騒乱の中で実際に生活した人でなければ落胆と心労と緊張と、そして遂にインシュリンの供給が十分に行われるようになった時の安堵を実感することはできないであろう。
糖尿病患者を治療して、彼らが迫りくる死の影から脱出するのを見るのも大きな感情的緊張であるが、そればかりでなく、やがて治療を続けるためのインシュリンが不足して彼らが再び死への路をたどることを予知しているのはさらに大きな緊張であった。
さらに、若くまだ世間にうとい研究者たちが耐えねばならぬ経済的、社会的圧力もあった。
当時、バンティングとベストには、他の国から、はるかに高額な給料の地位への誘いがあったことであろう。
インシュリンの発見は生命救済の武器としての巨大な価値は全く別としても、何百万ドルもの勝ちがあるであろう。
製薬会社による大量生産が行われない限り、球に多数の人々の手元に届くべくもない。
したがって、インシュリンの仕事に密接に従事している人々の誰しもが、極めて重い圧力に動かされ易かったのである。
彼らが低い給与に甘んじて、有益なかつまたやり甲斐のある科学者としての天職を追求し続けたことは誠に立派なことであった。
参考書:インシュリン物語 G.レンシャル・G.ヘテニー・W.フィーズビー著 二宮陸雄訳 岩波書店 1965年発行
