副院長ブログ(「インシュリン物語」を読む㉚一 インシュリン発見 7 発見が世界に知れわたる)
インシュリン物語の続き、30回目となりました。。。
インシュリンの生産と、臨床試用に対して盛んな努力が続けられた一方では、多くの時間と努力を要したもう一つの活動があった。
1921年の終わりには大発見のニュースが拡がり始めた。
発見の公式発表は、トロント大学内部で最初バンティングとベストにより1921年11月14日のジャーナルクラブの例会で医学部の人々と生理学部の学生に対して行われた。
エールではクリスマスと新年の間に、アメリカ生理学会会合で多数の聴衆が初めて発見の詳細を聞いた。
これには彼ら2人の一連の動物実験の成績が含まれていた。
再びトロントに帰って1922年2月にはトロント医学アカデミーの多数の聴衆の前で、バンティングとベストはもう一度公式発表をおこなった。
これらの機会と、特にエール大学の大きな会合を通じて、発見は科学界に知れ渡った。
この研究の価値はただちに認識されて、生産能力のある製薬会社がこの物質の生産を手伝うことに大きな興味を抱いたのも当然のことといえる。
インディアナポリスのエリー・リリー・会社がコンノート医学研究所と定期的に頻繁に会合をもって、彼らの知識を分かち合い、大量生産を早期に可能にするよう力を貸したのもこの時期であった。
1922年6月までにはインシュリンの発見は世界的ニュースとなり、このインシュリンの発見およびその人体への応用に関する記事は、全て非常な関心をもって読まれるようになった。
バンティングはひどく内気な性格で、脚光を浴びるのは大嫌いであったが、避けられるべくもなかった。
(中略)
バンティングはトロント大学医学部に職を得て、総合病院と戦傷者のためのクリスティ・ストリート病院で糖尿病治療の臨床問題を研究し続けた。
世界中にニュースが広まるにつれて、インシュリンの救命力を求めて人々は地球の隅々からトロントに集まってきた。
世界中の臨床家達からは彼らの患者をトロントに連れてきていいか、救命液を送ってもらえるか、と熱狂した嘆願が送られてきた。
当時はこれらの患者達に会うことが大切であり、もちろんだれもがバンティングに会いたがった。
そこで彼は従兄のヒップウェルとトロント市の目抜き通りにオフィスを開設した。
彼は患者を直接に自分の手で治療することに強く関心をもっていたので、大いに満足であった。
しかし、やがて彼のエネルギーと時間に対する要求が日毎に高まったので、これを続けることはもはや不可能となってきた。
この一大発見によって医学研究に対する熱意と関心が盛り上がり、各方面から財政的援助の申し出があった。
1923年にはオンタリオ州立法府はバンティング・ベスト医学研究法令を通過させ、医学における研究を鼓舞し刺激するための資金を設定した。
市民の有力者たちは.すすんで委員会を作り、トロント総合病院の向かいに大きな研究所を作って医学研究の場に提供したのである。
ロックフェラー財団から、あらかじめ与えられていた資金が物質的にこの計画を助けた。
1923年にはノーベル賞がこの発見に与えられた。
大学にとっても、また研究にたずさわったすべての人々にとっても無類の光栄であった。
多くの機会を通じてバンティングは彼の親密な共同研究者ベストが彼のインシュリン発見の対等のパートナーであると明言し、彼の公的発言と私的な行動とはすべてこれを裏付けた。
さらにバンティングには1925年にナイトの称号が与えられた。
カナダ政府は彼の業績に対し感謝の印として年金を設定した。
これらの事はこの発見に対して、当時みんなが感じた感謝の深さと強さを示していた。
(来月11月14日はWorld Diabetes Dayです)
参考書:インシュリン物語 G.レンシャル・G.ヘテニー・W.フィーズビー著 二宮陸雄訳 岩波書店 1965年発行
