副院長ブログ(「インシュリン物語」を読む㉑一 インシュリン以前 4 失われた環をもとめて その1)
インシュリン物語の続きを読んでいます。
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科学の実験は自然に対して質問を発することである。
自ら決定的な質問を発しながらも、糖尿病のことが念頭になかったので自覚しなかった人は、ストラスブルクの内科の教授の助手をしていたオスカー・ミンコフスキであった。
1889年にミンコフスキーは膵臓を剔出した犬が生きてゆけるかどうか調べるため、フォン・メーリンの助けで膵剔手術を行った。
その24時間後に犬が重症の糖尿病になって尿に5パーセントも問うが含まれていることを発見した。
二人は膵臓を剔出した犬に起こった出来事を正確に詳しく記載した。
そこでまさに注目すべきことは、ひとたび膵臓が除去されたときにかくも破滅的に糖代謝が撹乱されることから考えて、糖代謝を調節していることが明白な膵臓内のある種の物質の役割について、ミンコフスキーがさらに精しい研究に駆られなかったということである。
彼は化学的研究に関心を転じたが、膵臓の剔出によって糖尿病が起こったのか、あるいは、手術を介して作られた他の障害や損傷が糖の出現の終局的原因なのかを決めるのが先ず最も肝要であると述べている。
柔らかい肉質の臓器である膵臓(またの名をスイートパン)」は胃の後ろの後腹壁にあって、小腸の起始部たる十二指腸の馬蹄型の弯曲にくっついている。
膵臓は十二指腸に向かって膵管径を介していろいろな消化液を出す細胞の集団から成っている。
これらの消化液は消化過程に関与し、胃からくる炭水化物・蛋白・脂肪を分解する。
ミンコフスキーは剔出後の犬が脂肪と蛋白を消化することが全然できず、そのまま排泄されるのを認めている。
膵臓の細胞のあるものは顕微鏡でみると大部分の細胞と異なっていて、それを最初に観察した人の名のついたランゲルハンス島として集合している。
ミンコフスキーは糖尿病の起源を膵臓まで追って行った。
当時、彼は、その秘密がこれらの島にかくれているとは知るべくもなかった。
ミンコフスキーとフォン・メーリンは彼らの初めの所見の意義を明らかにしようとして多くの実験を重ねた。
膵をその腹壁への投錨地たる腸間膜から切り離して十二指腸との連絡だけにしておけば、動物は糖尿病にならなかった。
膵の外分泌管を二重結紮して、十二指腸から切り離し、腸間膜との連絡だけにしておいても、糖尿病にはならなかった。
膵臓を全部除去した場合にだけ糖尿病が起こるのであった。
全摘出までいかない実験はいずれもその機能を阻害することができなかったのであった。
輝かしい洞察と熟練の人物がインシュリンの発見から自らを遠ざけてしまったことは医学史の大きな謎の1つであるが、おそらく当時、動物組織から活性物質を抽出する知識が十分でなかったことによるのであろうか。
当時大学者達は病理解剖と神経生理に心を奪われていて、科学的知識と見解の趨勢はミンコフスキーをして正しい質問をさせるような方向にはなかったのである。
彼はバンティングとベストが問題を正しく提起し、解決し、発見したインシュリンが使われるのを見てから1931年に亡くなった。
ミンコフスキーのこうした挫折にもかかわらず、関心は依然として膵に集中されていたのである。
1901年米国ボルティモアのジョーンズ・ホプキンス大学の病理学教室で研究していた若い医師ユージン・リンゼイ・オピーは、一歩進んで、膵臓内に埋没している、まだ機能のわかっていない小さな球形組織であるランゲルハンス島に問題の焦点を絞った。
糖尿病患者のランゲルハンス島がしばしば萎縮していて化学的染色をしてみると細胞自身もガラス状に光沢があって、あたかも内容物が硬化しているように見えることに初めて気付いたのは彼であった。
ガラス様変性として、他の組織でも見られる一種の退行変性過程であることは明らかであった。
1年後の1902年にはソ連のペトログラードのレオニド・ソボレフも同様の観察を独立に報告している。
オピーの発見は『失われていた環』ともいうべきものであった。
それが惹き起こした考察の数々は1916年イギリスの生理学者エドワード・シャーピー・シェーファー卿の「糖尿病はこれらの島組織でつくられる内分泌の欠如による」という推論で頂点に達した。
シャーピー・シェーファー卿は大胆厚顔にもこの仮想物質に命名し、ラテン語のinsula(島)からとったインシュリン(insuline)という名をつけた。
既述のように肝臓の糖貯蔵機能に関する研究においてクロード・ベルナールは、ある器官の細胞がその物質を直接にその周りの毛細血管内に放出することを示していたのである。
膵臓は二種の分泌物を生産しているように思われた。
一つは腸に向かう膵管内に出す消化液、外分泌であり、一つは未だ仮説を出なかったが、直接血中に放出する物質・内分泌であった。
膵臓は二重器官で、その二つの部分は単に地理的関係を有するにすぎず、小さい島は大きな腺状組織の中に隠され散らばっている。
島を内分泌腺を見做す学説は、1897年に、ある場所で作られて血液で運ばれて身体の別の場所で化学刺激となる化学的メッセンジャーを初めて『ホルモン』と呼んだ二人のイギリス人、すなわちロンドンのユニバーシティー・カレッジ病院のベイリスとスターリングにより強化された。
(つづきます)
参考書:インシュリン物語 G.レンシャル・G.ヘテニー・W.フィーズビー著 二宮陸雄訳 岩波書店 1965年発行 1978年第12刷版