副院長ブログ(「インシュリン物語」を読む㉛一 インシュリン発見 8 発見のエピローグ)
(インシュリン)発見に根ざした主な恩恵は既に明らかであるが、中でも糖尿病者の生命の救済と延長は偉大なものである。
第二の恩恵はトロント大学はもちろんのこと、全世界における医学研究へおよぼした測り知れぬ刺激であろう。
2人の発見者にまつわる興味ある事件を略記するならば、バンティングはインシュリンに関する論文を39編発表し、その最初のものは1921年12月に、1922年には14、1923年には10、次いで翌年には8編が発表された。
それ以後は1925年のノーベル賞受賞講演と、1939年のキャメロン賞受賞講演がインシュリンと糖尿病に関するかれの唯一の公的発言であって、彼の関心は新しく設立されたバンティング研究所での、バンティング・ベスト医学研究部の活動に専ら注がれた。
彼はいろんな研究問題に専念すると共に、研究を組織し奨励することに力を注いだ。
もう一人の発見者、チャールズ・ベストには最初は実験に関与し後にはインシュリン生産に尽力したことにより、洋々たる将来が開かれた。
トロント大学を1922年に優秀な成績で卒業すると、彼はイギリスに渡り、研究陣の指導者であったヘンリー・ディール卿の許に学び、イギリスでの勉強と、ヨーロッパでの研究業績によってロンドン大学で理学博士号を受けた。
トロントに帰ると衛生学教室内に新たに設けられた生理衛生学部に属し、インシュリンの生産に関与したことも一因となって、施設も拡大され、重要度も増していたコンノート研究所の副所長となった。
糖尿病に関するベストの関心は終始変わることがなかった。
マクラウドがトロント大学の教授職から引退したとき、ベストは彼の後任となった。
フレデリック・バンティング卿が1941年軍務中、航空事故で死亡した後は、バンティング・ベスト医学研究所の主任を兼ねた。
この時以来彼はこれらの両学部を発展、指導して来たのである。
インシュリンの初期に関与した人々の中で、コリップはホルモンの研究に優れた業績を残し、最近では医学教育学に専念している。
インシュリンの臨床的研究に重要な役割を演じた臨床家のキャンプベルおよびフレッチャーは今なおその分野で活躍している(1960年代当時)。
1921年の発見に端を発した出来事を細目に渡って述べることはもはや不可能であろう。
しかし簡単に述べるならば、はじめの10年間にはバンティングがナイトに列せられ、有名になり、立派な研究所が作られて、重要な医学研究プログラムの推進に没頭した。
チャールス・ベストはマクラウドの後任として生理学の教授となり、興味ある研究に従事した。
またコンノート研究所との関係も続いて、インシュリンの発展と普及に力を注いだ。
次の10年間には第二次世界大戦によって万華鏡的な変化が加わった。
新しい情勢に基づいてバンティングはただちに戰爭医学、特に航空医学の研究を担当し、ベストは救急輸血と海洋医学の研究を命ぜられた。
悲劇は1941年に起こった。
バンティングはイギリスへ渡る途中、航空事故でニューファウンドランドの森に墜落したのである。
ベストは彼ら2人のために名付けられた医学研究所の残された責任者となるに到った。
トロント市の中心に建つ大学の建物と向かい合って、バンティングとベストの2つの研究所はさながら2人が幾百万もの貴い生命に幸福をもたらした友情のきずなを後世にに伝えるかのように、アーチ状の渡り廊下でつながれてそびえ立っている。
この勇気、果断、私心のない協力は、来るべき若い科学者たちを鼓舞しつづけてやむことがないであろう。
奇しくも、今日は11月14日はWorld Diabetes Dayです。
ああ、ブログ記事、なんとか間に合いました。
参考書:インシュリン物語 G.レンシャル・G.ヘテニー・W.フィーズビー著 二宮陸雄訳 岩波書店 1965年発行
